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#2

 下を向いたら目と鼻と口の奥から水っぽいものがあふれてしまいそうだった。肩よりも低いところから僕を見上げて、桜の花びらをもてあそびながら八重ちゃんが少し的外れな答えを返した。
「ずっと、ごめんね、でもありがと、三年間楽しかった」
 泣きそうな笑顔、なのに、それは満面の笑みだった。でも瞳が潤んで声が震えていた。
 この三年間で、覚えているだけでも五回、僕は八重ちゃんに告白した。その度に古いレコード盤のように、この高校で彼氏を作るつもりがないと八重ちゃんは繰り返していた。でも、八重ちゃんはいつも、なぜか僕のそばにいた。
「じゃあなんで、一緒にいてくれてたの?」
「いっしょにいたら楽しかったから」
「本当にそれだけ?」
 頬を膨らませて困ったような怒ったような顔をする。笑った顔よりも僕はこの表情が好きだったかもしれない。この顔が見たくて他愛も無いことで八重ちゃんを困らせたり、怒らせることも何度もあった。
「あんもう、しょうがないなぁ」
 背伸びしながら僕の肩に両手をかけて目を閉じた。夢の中で、布団の中で、トイレで、風呂で、計算上少なくとも千回は想像した顔が、目の前で、僕がキスするのを待っている。高鳴る胸、なんて使い古された表現を一億回書いても足りないほど鼓動が無茶な速さで動いていた。
 八重ちゃんの柔らかい腰に手のひらを置いて、折れそうなほど震える脚を大きく八の字に開いた。そうして頭の位置を低くしないとキスなんか出来ないほど身長差があることは想像の中で何度も経験していた。薄くはない口唇の上に、壊れ物を扱うようにそっと自分の口唇を重ね合わせる。あかねの口唇よりもずっと柔らかくて気持ちよくて、何か卑猥だった。三年間変わらない柑橘系の甘い匂い。あっという間にチンコが完全に勃起した。
 路地の入り組んだ下町にありがちな三角形の空き地に、ベンチと滑り台とブランコとごみ箱を置いて無理矢理公園にしたような空間の隅っこで、目のふちにたまった涙がこぼれないように懸命にこらえる八重ちゃんを僕はチンコのことなど構わず力いっぱい抱き締めた。つむじに頬擦りしたら一気にいろいろな何かがこみ上げてきた。身体に不釣合いな少し大き目の胸が腹で潰れる感触が、体育祭の仮装行列の先頭で、小さな自由の女神が水色のブラをはみ出させていたこととか、プールサイドで屈伸する八重ちゃんのこぼれそうな胸元を思い出させた。そんな男らしい記憶の数々が僕の涙の防波堤を乱暴に決壊させようとする。
「は、はやしくん、痛い」
「あ、ごめん」
 抱き締めた腕をほどいた途端、落ち着かせ先を失った僕の両手はズボンのポケットへ収まるしかなかった。
「八重ちゃん、なんで今頃になって」
「だってはやしくん、あかねちゃんとつきあってたでしょ」
「それはだって八重ちゃんが付き合ってくれないから」
「あかねちゃんといっぱいえっちしたくせに」
 何も答えられなかった。八重ちゃんが勝ち誇ったような顔をする。
「それに大学に行ったら、またちがう子といっぱいえっちするんだ、はやしくんは」
 学校の帰りにこの公園で、こんな風に話をするのもたぶん今日が最後だ。あした卒業したら八重ちゃんは大阪のおばあちゃんの家で浪人生活だって言ってた。なぜ大阪にまで行くのかが僕には分からなかった。両親が離婚するから、という理由を聞いたのはおととい、ここのブランコだった。
 ベンチに座って僕を見上げ、あっかんべ、と舌を少し覗かせる。
 さっきのキスなんか嘘か幻のように、八重ちゃんはおなかがすいちゃった、と八重歯を見せて笑った。決壊しそうな防波堤は、その笑顔のおかげで辛うじてその重責を果たしてくれた。



 いつものラーメン屋に戻って塩ラーメンをふたつ頼んで、いつものようにあらかじめ麺を半分、僕の方に入れてもらう。
「こうやってたべるのも、きょうでさいごだね」
「そういうこと言うなよ、おれ泣いちゃうかもしれないよ」
「さっきないてたくせに、ほんとは」
「泣いてないよ、泣いてたのは八重ちゃんのほうだろ」
「ないてないもーん」
 ラーメン屋のオヤジが、全くお前らは三年間進歩がねえ、とぶつぶつ言いながら餃子を一皿おまけしてくれた。いただきまあす。何も言わずにカウンターにふたり並んでズルズルとラーメンをすする。こうやってよく素人集団のクラブ活動みたいな番組を観たもんだ。その誰よりも八重ちゃんの方が可愛かった。でも八重ちゃんは少し音痴だ。音痴なのは彼女らがうわてだが。
「尚子は、どうするんだ?」
 オヤジは八重ちゃんを本名で呼ぶ。一年の一学期、誰かが八重歯ちゃん、と言ったのがきっかけで、それからずっと僕は八重ちゃんと呼んでいた。
「あたしは、ろーにん」
「おお、そうか、頑張れよ」
「うん、ありがと」
 最初に「八重歯ちゃん」というあだ名が生まれる瞬間、僕はそこにいた。入学直後で同級生の名前の記憶がまだ不確かな頃、誰が可愛いか、という他愛もない話をして誰かの机を囲んでいた。僕がそっと、背が低い八重歯の相原って子、と言ったのをその誰かが「ああ、あの八重歯ちゃんね」とデリカシーのない声で受け答えた瞬間、「八重歯ちゃん」が僕の真後ろにいたのだ。
「なぁに、やえばちゃんって」
「えっ、ああ相原さん」
 セキグチという眼鏡が「こいつが相原さんのこと一番可愛いって言ってたよ」などと余計なことを言う。しどろもどろになりながら懸命に否定しているのがよっぽとおかしかったのか、
「おかしなひとぉ」
と一言残して教室を出て行った。
 その後しばらく、積極的に友達を増やそうとしていたわけではないが、このクラスの大半の生徒とは何か噛み合いが悪いというか、波長が合わないというか、やけに疲れる日々が続いた。連休のことを話し合う集団が出来上がっていた頃には、ひとりで下駄箱へ向かうのが当たり前になってきていた。
「あ、おかしなひとだ」
 靴を履き替えていたら、頭にダンゴをふたつ乗せたような髪型の八重ちゃんが声をかけてきた。
「あのさぁ、そろそろおかしなひとって言うのやめようよ」
「あのさぁ、そろそろやえばちゃんっていうのやめようよ」
 顔を見合わせて、二人で笑い出し、止まらなくなった。何がおかしかったのかは、よくわからなかった。久し振りに学校で笑ったような気がした。
「やえばあちゃんっていわれてるみたいでやだの」
「わかったよ、じゃあ。八重ちゃんでいい? いまさら相原さんなんて呼びにくいし」
「うーん、いいか、やえちゃんでも」
 ふたりで校門を並んで出て、特に何も疑うことなく一緒に電車に乗り、久しぶりにヒット曲の好き嫌いなんて軽い話に熱中しながら同じ駅の改札を出た。
「あれ? そう言えば家こっち?」
「うん、あっち」
 僕の家の方角を指さした。
「え? おれもあっち」
「まねしないでよ」
 前々から気になっていたが、八重ちゃんの話す言葉には漢字があまり混じってないような感じがしていた。少しのんびりと、でもちょっと生意気なことを上目遣いに言う。駅のそばの通称「三角公園」が、いま来た道を二股に分けるところで同時に立ち止まった。
「はやしくん、どっち?」
「どっちだと思う?」
「おねがい、あっちにして」
「何だよそれ、じゃあ八重ちゃんはそっち?」
「うん、そう」
 なぜにこにこ笑っているんだろう。
「ちょっとのどかわいた」
「んん?」
「牛乳飲みたくない?」
「のど渇いたら牛乳飲むの? なんかコドモみたい」
「なによぉ、いいじゃないのよぉ」
「そこの自販機でよければ、何かおごってあげるよ」
「じゃあ、おごられてあげる」
 僕のむっとした表情を静止するように、あんがと、あたしウーロン茶がいいな、と首をかしげて微笑み、僕の顔を見上げていた。
 こんな風に屈託なく、自分が飲みたい物を聞かれもしないのに嫌みのかけらもなく答えた八重ちゃんが、退屈しかかっていた学校のすみに咲いた小さな花のように見えた。絵には描けるが名前のわからない花だったけど。
 ベンチの端と端に座って、黙って缶を握ったままブランコで遊ぶ子供を眺めていた。ふと横目で八重ちゃんの視線の先を追うと、綿あめのような雲が空に低くただよっていた。あれがたべたい、なんて言い出すんだろうか。
「えんぴつ口と鼻にはさんでるとき、なにかんがえてるの?」
 空を見上げて八重ちゃんがつぶやいた。そんなところを見られているとは知らなかった。
「なんかさ、クラスの人とあんまし話が合わないなって」
「そっかぁ、あたしとおんなじだ」
 学校のそばを流れる川の西と東で、中学で使っていた教科書から何からがすべて違うことを八重ちゃんが教えてくれた。話が合わないのは、おもに東側の人たちらしい。あとで名簿で数えたら、クラスの六割以上が東側で、僕と八重ちゃんが住む区の生徒は五人しかいなかった。
「でもさ、そんなに違うもんかな、話題とか、流行ってたものとか」
 と言いながら、歌謡曲以外の音楽の流行がまるで違っていたこととか、刑事と泥棒に分かれて遊ぶ集団鬼ごっこの呼び方が違うこととか、野球よりサッカーが盛んらしかったことに思い当たった。
「ね、ちがうのよ、こまかいことが」
「うーん、確かに。でも、なんでだろ」
「それがわかったら、いまここにいないね、あたしたち」
「そう、だね」
 レモン色の手提げの持ち手に結ばれたチープな腕時計を見て、んしょ、と立ち上がり、空き缶を僕に差し出した。
「みたいテレビがあるから、そろそろかえるね」
「うん、じゃあ、あした」
「ウーロン茶ごちそさま。ばいばい」
 お互いに違う出口へ向かい、振り返って手を振る。空き缶をふたつ持ったままだったことに歩いている途中で気付いたが、道端には捨てずに本棚に飾っておいた。寝る前に空き缶を手に取り、飲み口にキスをした。ちょっと興奮した。


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