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第一話 1年A組
「赤川次郎と塩ラーメン」
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「えぃらっしゃい」
 ラーメン屋のオヤジの大きな出迎えの言葉に八重ちゃんがたじろいだ。昼時も真っ只中だったこともあって、狭い店内は満席、立って待っている作業服の三人組までいた。
 とんでもなくデカい中華鍋をとんでもなくデカいコンロにガコンガコンと叩きつけて、チャーハンを炒めるオヤジが下を向いたまま僕の名を呼んだ。
「なんだ、きょうも補講か?」
「きょうもって、補講なんか受けたことないよ、昼メシ食いに来たの」
「となりのちっちゃなお嬢ちゃんは妹さんか?」
 お嬢ちゃんじゃないもん。僕の顔を見上げて怒る。怒っているようには見えないけれど。頭をなでてなだめてみたい。よしよし。想像だけで身悶えする。
「同級生、相原さんっつーの」
 オヤジが下の名前を聞く。スケベオヤジめ。八重ちゃんが答えたが、いっぺんに三杯のドンブリに麺を取り分けているオヤジに聞こえたのかどうか不明だ。サラリーマンがひとり立ち上がって、店を出て行く。そこに作業員の一人が座った。ラーメン大盛りみっつね。あいよお。
「漢字でどう書くんだ?」
「ほら、向島のムコウに毛が生えたみたいなやつ」
「なんていいかたするのよ、なおさらのなおとかいえばいいじゃん」
「あ、そうか、熟語が思い浮かばなかったから」
「やっぱり林は補講に行っとけ。で何にする?」
 あたしが言ってもいい? いいよ。すうぅ、っと八重ちゃんが深呼吸した。塩ラーメンふたつくださぁい。あいよお、塩ふたつぅ。目をきょろっとさせて、声には出さなかったが、口は「うわぁ」と言っていた。よく練られたいたずらが成功したこどもみたいに、うれしそうだ。ひとりで初めてラーメンを注文した時って、そんなにうれしかったかな。
 客の回転が早い。作業員は飛び飛びに三人とも座った。やがてふたつ席が空き、無言でずれてくれたおじさんのおかげで、僕たちはカウンターの中央に並んで座ることが出来た。ほどなく、塩ラーメンがカウンターの一段高くなったところに二杯並び、八重ちゃんの前に細心の注意を払ってドンブリを置いてあげた。
「あいがと」
 ベキッと鈍い音がした。八重ちゃんは割り箸が上手に割れず、片方が頭でっかちになっていた。
「はやしくん」
「ん?」
「とっかえて」
 よっぽど気に入らなかったのか、むくれている。
「八重ちゃん、弟いるでしょ?」
「なんでわかるの?」
「なんとなく。そうやって弟の箸取り上げてるんだろうなって」
「それじゃなんかあたしがいじわるみたいじゃない」
 でもきっと、弟くんも「仕方ねえ姉ちゃんだな」と笑って箸を取り替えてあげているんだろう。意地悪だなんて、たぶん思ってない。おれも思ってないよと割り箸を差し出した。
 ふたりで同時に頭をさげて、いただきますを言う。不思議な味だった。野菜が溶け込んだ甘い味がする。醤油味や濃い味噌味に慣らされた舌には、この過不足のない風味がすごく新鮮だった。
「ね、おいしいでしょ?」
「うん、なんか新鮮」
 美味いのは俺の腕のおかげだとオヤジが割り込む。塩ラーメンとかタンメンが一番難しいんだ、誤魔化し効かねぇから。それ以来僕は初めて入るラーメン屋で頼むのは、塩かタンメンと決めている。オヤジの持論はたぶん正しい。塩の不味い店は何を食ってもダメだ。
 半分ぐらい平らげたところで、僕たちは何の会話もしていないことにふと気付いた。まだ言うことを聞いていた妹と台所で昼メシを食っているような感じに似ていた。八重ちゃんも、ふうふう言いながら麺を五、六本ぐらいずつ、小さくて少しぽてっとしたくちびるに運んでいる。こうやって黙ってラーメンを食べているのが、すごく自然で楽しい。横顔を見ていると、八重ちゃんがもごもごしながら振り向いた。
「おいしいね、はやしくん」
「うん」
「こんど、ひるやすみに来たい」
 ズルズルと汁をすすりながら、うんうんと首を振る。僕はあっという間に食べ終わってしまったが、八重ちゃんのドンブリには、まだ半分ぐらい残っていた。
「もう、おなかいっぱい」
「ええ? まだ半分ぐらいあるよ」
「ぜんぶたべたらふとるもん」
 まあ、そんなお年頃なんだろう。まだ店には途切れずに客が入ってくる。水をおかわりして、二人分の勘定を済ませ、すでに汗ばむほどの陽気の店の外へ出た。
「美味いもんだね、塩ラーメン」
「でしょ?」
 ラーメンを食べている最中からかいていた汗が、後から後から吹き出てくる。まだ五月になったばかりなのに、セミでも鳴き出しそうな午後だった。
 それから駅前の本屋に行って八重ちゃんの手の代わりになり、赤川次郎と赤瀬川原平の文庫を手に取って、赤川次郎が好きなの? とたずねると、読んだことがなかったから、と八重ちゃんは答えた。手が届かなかったからでしょ、とは言わなかった。


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十一月の偶然
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