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第二話 2年A組
「あまいものがきらい」
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 三時間目の日本史の授業が終わったら狼のように腹が減った。立ち上がって教室全体を見渡し、梅雨の湿気で滑らない、建て付けの良くない扉と格闘しているところを八重ちゃんに呼びかけられた。
「はやしくぅん」
 振り向いた向こう、オオタニの隣には早くも須藤さんが立っている。それが何とも息苦しくて、休み時間は用も無いのに毎日トイレに逃げ込んでいた。ねえねえ、と八重ちゃんが後を付いて来る。さすがにトイレに連れ込むわけにはいかないので階段の踊り場まで歩いた。
「あの一年生、ちょっとこわい」
「どしたの?」
「あたしのことみて、わらうの」
 須藤さんが視界に入らないようにしているからそんなことまったく気付かなかった。どう答えて良いやら。でも八重ちゃんは困った様子もない。
「はやしくんのこともみてるみたいだけど、きづいてる?」
 だから逃げてるんじゃないか。でもそんなことに気付いた八重ちゃんも大したものだけど。
「うん、なんとなく」
「ふぅん、なんとなくなの?」
 手をうしろに組んで、僕を見上げてにやにやしている。僕に一票だけ入っていた学級委員の投票が八重ちゃんのしわざだったのがバレた時と同じ顔をしていた。
「はやしくん、かのじょがほしいんでしょ?」
 こめかみの奥でカチンと音がした。自分の顔から笑みが揮発して無表情になり、見せたこともない目付きで八重ちゃんを見据えている自分を感じた。
「いまの言葉、すげえムカついた」
「あ。うそ、いまの」
「おれになら、何を言っても許されるとか、思ってない?」
「だから、うそなの、ごめん」
 悔しくて涙が出そうだった。あんなことを本気で口走るような子じゃないのはわかる。冗談のつもりだったんだろうとも思う。僕をからかう軽口のレベルとしては普段並みだ。でも。
「わかった。もういい」
 八重ちゃんの横を早足に通り過ぎ、一段抜かしで階段を駆け降りた。その日はひとことも口を聞かなかった。八重ちゃんとも目を合わせなかった。わだかまったものの処理に困って、自分でもどうして良いかわからなかった。
 晩飯時も、並べた箸の向きが逆だと妹に噛み付いて呆れた顔をされたり、両手いっぱいの大量のシャンプーを使って髪を洗って身体中泡だらけになってみたり、新聞の白抜き見出し文字を色鉛筆でひとつずつ違う色で塗り潰してみたり、顔写真にヒゲを描いたり色を付けてみたり、意味のないことばかり繰り返していた。新聞紙が淡い色で賑やかになった。ゴルバチョフの頭のシミにはボートが浮かんでいる。意味の解らない経済や政治の記事さえ、軽薄なファッション雑誌みたいに楽しそうだった。



 オオタニに須藤さんのクラスを聞いて、放課後、結局使わなかった新品同様の生物の参考書を譲りに行った。まだ騒がしい教室の真ん中で、須藤さんが周囲に短いスカートの女の子たちを数人立たせて座り、楽しそうに小泉今日子の替え歌を歌っていた。
 入り口のそばで様子をうかがっていた僕に気付いた派手な顔の女の子が須藤さんの肩を強くはたく。ほら、来たよ先輩。黄色い声。見ている僕の方が恥ずかしくなるような、身体中で冷やかす彼女らに背中を押されて、僕の教室では見たこともないおしとやかな歩き方の須藤さんがゆっくり近付いてきた。
「あああの、オオタニに言われて」
 リュックの中で表紙が折れてしまった参考書を手渡す。さっきまで折れ目なんかなかったのに。
「は、はい・・・」
 もじもじするのは別にいいんだけど、胸の下で腕を組んで、その途方もないふくらみを強調しないで欲しい。昨日は抜いてないんだから。いつもよりちょっと敏感なんだよ、おれは。
「せ、先輩、きょう、いっしょに帰りませんか?」
「方向逆じゃん」
「駅までで、いいですから」
 うわぁ、ハマった、八重ちゃんはもう帰ったっけか? あいまいな返事でもしておくか。
「ううん、まあ、いいよ、たぶん」
 汗が吹き出てくる、耳とか背中とか手のひらとか。校門を出たところの米屋で待ってろと指示された。何を緊張しているんだろう。教室に誰もいないことを祈りながら、まるで空き巣か何かみたいにこそこそとリュックを取りに戻り、無事、知っている顔に遭遇せずに米屋までたどり着いた。軒先で、なぜかバャリースを二本抱えて須藤さんがすでに待っていた。
「あ、ごめん、待った?」
「ううん、ぜんぜん、いま来たばっかりです」
「そう、そりゃ、よかった」
「飲みます?」
「飲みます? って、二本あったらいらないなんて言えないじゃん」
「それもそうですね」
 屋号が裏返しに書かれたテント地のひさしのふちに、雨粒がひさしと同じオレンジ色に染まってふくらんでいた。何を話せばよいのやら、さっぱりわからない。
「参考書、ありがとうございました、まだすっごくきれいなのに」
「成績の悪い証拠みたいで、はずかしかったんだけどさ」
「そんな・・・」
 話が続かない。まるで下手くそな卓球かテニスだ。サーブを返したら終わり。きょう僕は何回リターンエースを決めなければならないのだろう。
「あのですね、お礼にと思って、ケーキを作ったんです」
「お礼? なんの?」
「参考書の、です」
「いいよ、そんなの、持っててもしょうがないものなんだし、もらってくれて助かってるぐらいなんだから」
「でも・・・」


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十一月の偶然
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